毎年6月、国民健康保険の通知書が届くたびに「また上がった」とため息をつく。フリーランスで所得が増えるほど、この封筒が憂鬱になる人は多いはずだ。所得に比例して上がり続ける国保と、定額の国民年金。会社員時代より明らかに重い。
そこで一部の個人事業主が選ぶのが、自分ひとりだけの会社、いわゆるマイクロ法人だ。合同会社を作って役員報酬をぎりぎりまで下げ、安い社会保険(健保・厚生年金)に乗り換える。結論から言うと、これで年18万〜40万円ほど保険料が下がるケースがある。ただし誰でも得になるわけではない。設立と維持にもお金がかかるからだ。
なぜ国保は高く、法人の社保は安くなるのか
国民健康保険には決定的な弱点がある。世帯の所得が増えるほど保険料が上がり、しかも家族(扶養)が増えても安くならない。むしろ世帯人数で増える自治体も多い。2026年度の賦課限度額は110万円まで引き上げられ、所得の高い自営業者ほど天井に張り付く。国民年金も2026年度は月17,920円の定額で、夫婦なら2人分かかると年43万円だ。
具体的に見てみよう。たとえば事業所得500万円・配偶者ありの世帯だと、国保は自治体によって年50万〜60万円台、それに国民年金が夫婦で年43万円。社会保険関連だけで100万円前後が飛んでいく計算になる。所得が増えればこの数字はさらに膨らむ。
一方、会社の健康保険・厚生年金は役員報酬の月額だけで保険料が決まる。事業の儲けがいくらであっても、自分への報酬を低く設定すれば保険料は最低ランクに収まる。さらに健保は配偶者や子を扶養に入れても保険料が1円も増えない。ここが国保との最大の違いだ。
つまり「事業の利益は法人に残しつつ、自分の役員報酬だけ低く見せる」ことで、社会保険の世界では低所得者として扱われる。これがマイクロ法人で社保が下がるカラクリである。本当にそんな都合のいい話があるのか、と思うかもしれないが、制度上きちんと認められた設計だ。
国保の中身も押さえておきたい。保険料は大きく「所得割」(所得に比例)、「均等割」(加入者1人あたりの定額)、自治体によっては「平等割」(1世帯あたりの定額)の合算で決まる。所得割は前年の総所得から基礎控除43万円を引いた額にかかり、医療分・後期高齢者支援分・介護分(40〜64歳)の3階建てで積み上がる。だから所得が増えれば所得割が伸び、家族が増えれば均等割が積み増される。マイクロ法人の健保はこの3つすべてと無縁になり、報酬月額だけで決まる。所得が大きく家族が多い人ほど、この差が効いてくるわけだ。
役員報酬は月いくらに設定すれば最安か
社会保険料は等級制で、いちばん下の1等級が最安だ。健康保険は報酬月額63,000円未満、厚生年金は標準報酬月額88,000円が下限になる。したがって役員報酬を月63,000円未満(年756,000円以下)に抑えれば、社保はほぼ最低額で固定される。
もう一段こだわるなら、所得税・住民税までゼロに近づけたい人は月45,000円(年54万円)前後に設定する。給与所得控除と基礎控除の範囲に収まり、報酬への課税がほぼ発生しない水準だ。報酬を低くした分、事業の利益は法人に残るが、そこは法人税(赤字なら課税なし)や役員退職金の積み立て、経費でコントロールしていく。
この最安設定での社会保険料は、40歳未満・労使両方の負担を自分で払う一人社長で、おおむね年26万円前後になる。会社員と違って労使折半の「会社側」も結局は自分の法人が払うので、両方を自己負担として見ておくのが正しい。それでも、高い国保+国民年金を払っていた頃より、ここが大きく軽くなるわけだ。
注意したいのは、役員報酬は年の途中で自由に動かせない点だ。原則として事業年度の開始から3か月以内に金額を決め、その後1年間は据え置く。だから「儲かったから今月だけ増やす」はできない。最初の設計がすべてだと考えておきたい。
年収別シミュレーション:いくらから得になるか
肝心なのは「削減額が維持コストを上回るか」だ。税理士法人などの試算では、役員報酬を最低にした場合の年間削減額の目安はこうなっている(2026年時点・扶養構成別)。
| 年収(事業所得)の目安 | 扶養の状況 | 社保の年間削減額(目安) | 維持コストを引いた手残り |
|---|---|---|---|
| 300万円前後 | 扶養なし(独身) | 約18万円 | ほぼトントン〜やや得 |
| 500万円前後 | 配偶者を扶養 | 約33万円 | 年10万円超の得 |
| 800万円前後 | 配偶者+子1人 | 約40万円 | 年15万円超の得 |
削減額は自治体や年齢で前後するので幅で捉えてほしい。重要なのは傾向だ。
独身・年収300万円のケースでは、削減18万円に対して維持コスト(後述の年17〜22万円)がほぼ丸ごと食い込む。手間とリスクを考えると、わざわざ法人を作る旨味は薄い。
これが配偶者ありになると景色が変わる。国保では配偶者の分も世帯保険料に乗るが、法人の健保なら扶養に入れて保険料ゼロ。だから削減額が33万円に伸び、維持コストを引いても年10万円以上が残る。さらに子どもがいる年収800万円世帯なら、扶養が増えるほど国保との差が開き、削減40万円で手残りは年15万円超になる。
維持コストはざっくり年17〜22万円。だから削減額がこれを安定して超える「年収500万円・扶養あり」あたりが、迷わず踏み込める損益分岐ラインだと言える。
どの費目が消えるのかを分解してみる
なぜ削減額が出るのか、お金の流れで分解するとわかりやすい。事業所得500万円・配偶者を扶養・本人40歳未満という前提で、何が減るのかを見ていく。
個人事業のままだと、出ていくのは「所得に応じた国保」+「国民年金 本人分(2026年度 年21.5万円)」+「配偶者も第1号被保険者なら年金もう一人分」。国保は所得が高いほど重く、しかも世帯人数で均等割が積み上がる。
マイクロ法人に切り替えて役員報酬を月45,000円にすると、この構造が丸ごと置き換わる。法人の健保・厚生年金は最安等級で固定(年約26万円・労使合計を自己負担換算)。配偶者は健保の扶養に入るので追加負担はゼロ、国民年金も厚生年金に切り替わり配偶者は第3号被保険者で保険料がかからない。
つまり「所得連動で青天井の国保」と「人数分かかる国民年金」が、「定額の社保 約26万円」に化ける。削減額が自治体や扶養人数で大きくブレるのはこのためで、国保水準の高い自治体や扶養が多い世帯ほど差が開く。表に挙げた約33万円はあくまで中央的な目安であって、高国保エリアではさらに上振れすることもある。逆に国保が安い自治体・独身なら差は小さい。だからこそ、平均値ではなく自分の通知書の数字で確かめることが要になる。
見落としがちな維持コスト
法人を持つと、儲かっていなくても出ていくお金がある。設立前にこの実額を直視しておきたい。
| 項目 | 金額の目安 | 備考 |
|---|---|---|
| 設立費用(合同会社) | 約6万〜10万円 | 一度きり。電子定款で安く |
| 法人住民税の均等割 | 年7万円 | 赤字でもかかる(都道府県2万+市区町村5万) |
| 税理士の決算・申告 | 年10万〜15万円 | 自分で申告すれば圧縮可だが負担大 |
| 会計ソフト | 年1万〜5万円 | freeeやマネーフォワード等 |
ランニングだけで年17〜22万円。設立した年は初期費用も乗る。削減額がこれを下回るなら、手間をかけて損をする話になる。「均等割は赤字でも年7万円」という一点を忘れて、儲からない年に思わぬ固定費を抱える人は意外と多い。
向く人・やめておくべき人
ここまでの数字を踏まえると、判断はそれほど難しくない。
向いているのは、事業所得がおおむね年500万円以上で安定していて、配偶者や子を扶養に入れられる人。国保の負担が年40万円を超えているなら、法人化で逆転する余地が大きい。社保以外でも、法人名義の経費計上や信用面のメリットを取りたい人にも合う。
逆にやめておいたほうがいいのは、独身で所得もまだ読みきれない駆け出しのフリーランス。削減額が維持コストに食われて旨味が出にくい。それから、将来の年金額を重視する人も慎重になりたい。役員報酬を下げる以上、将来の厚生年金が最低額になり、老後の受給は会社員より少なくなる。目先の保険料と引き換えに老後を削る側面があることは正直に書いておく。社保の負担構造は標準報酬月額の上限引き上げのような制度改正も続いており、ルールが変わるリスクも頭の片隅に置きたい。
個人事業との「二刀流」をどう分けるか
マイクロ法人の定番が、個人事業を畳まずに残す二刀流だ。社会保険に入るための小さな事業(例:細々とした物販やコンサル、不動産の管理など)を法人に置き、メインの事業所得は個人事業のまま青色申告で残す。こうすると個人側で青色申告特別控除65万円や各種控除を使いつつ、社保だけ法人の安い枠に乗せられる。
ただし実態のない売上を法人に付け替えるのは税務上アウトだ。法人と個人で業種や取引先がきちんと分かれている必要がある。たとえば「ライティングは個人、物販は法人」のように、事業の実態そのものを分けるのが筋だ。線引きが曖昧だと否認リスクがあるので、ここは設計段階で税理士に相談する価値がある。
業種の分け方の例を挙げると、本業がエンジニアやデザイナーなら受託開発・制作は個人事業、ストック型の小さな収益(自作テンプレートの販売、サブスク運用など)を法人に。コンサルが本業なら顧問契約は個人、書籍・教材販売を法人に。要は「主従」と「実態」がはっきりしていればよい。
個人側の確定申告の組み立てはフリーランスの確定申告シミュレーションも合わせて確認してほしい。今の国保負担がどれくらいかは6月の国保通知書の読み方で把握できる。
設立から運用までの流れと、消費税の副次メリット
実際の流れはそれほど複雑ではない。合同会社なら、商号と事業目的を決め、電子定款を作成し、法務局で登記する。資本金は1円でも作れるが、社会保険の手続きや実務を考えると数十万円は入れておくのが無難だ。登記後は年金事務所で社会保険の加入手続き、税務署・自治体への法人設立届を出す。ここまでで早ければ2〜3週間で動き出せる。
副次的なメリットとして、消費税の扱いがある。新しく作った法人は、原則として最初の2期は消費税の納税義務が免除される(資本金1,000万円未満などの条件あり)。インボイス制度で課税事業者になっている個人事業主にとって、法人側の売上をこの免税期間に乗せられるのは小さくない。ただしインボイス登録を法人でもすると免税の恩恵は薄れるので、取引先が課税事業者かどうかで判断が分かれる。ここは自分の取引構造次第だ。
運用フェーズでは、毎月の役員報酬を一定額で振り込み、帳簿をつけ、年1回の決算・申告を回す。会計ソフトを使えば日々の入力は個人事業時代とそう変わらないが、決算と社会保険の年次手続きは法人特有の手間が増える。この「手間」を時給換算してなお得かどうかも、損益分岐の一部として見ておきたい。
減る年金をどう補うか
役員報酬を最低にする最大の代償が、将来の厚生年金が最低額になることだ。だが、ここは打ち手がある。むしろ「社保で浮いた分を老後資金に回す」と考えると話が整う。
ひとつは小規模企業共済。個人事業主や小規模法人の役員が入れる退職金制度で、掛金は月1,000円〜70,000円、全額が所得控除になる。法人を畳むときや引退時にまとまった共済金を受け取れる。もうひとつがiDeCo(個人型確定拠出年金)で、こちらも掛金が全額所得控除になり、運用益も非課税だ。
社保で年30万円浮いたとして、その一部を共済やiDeCoに積めば、減った公的年金を自分で作り直す形になる。しかも掛金分はさらに節税になる。順番に迷ったらiDeCoとNISAの優先順位も参考にしてほしい。社保を下げて浮いたお金を消費に溶かすか、老後に積み直すかで、この戦略の評価は大きく変わる。
3つの選択肢を並べて比べる
「個人事業のまま」「マイクロ法人と二刀流」「完全に法人化」の3択で整理すると、自分の位置が見えやすい。
| 比較項目 | 個人事業のまま | マイクロ法人(二刀流) | 完全法人化 |
|---|---|---|---|
| 社会保険 | 国保+国民年金(高い) | 法人の社保 最安(年約26万円) | 報酬次第で社保が増える |
| 事業所得の扱い | すべて個人 | 個人と法人に分散 | すべて法人 |
| 維持コスト | ほぼなし | 年17〜22万円 | 年20万円以上 |
| 向く年収帯 | 〜400万円 | 500万〜1,000万円 | 1,000万円超 |
| 手間 | 小 | 中 | 大 |
完全法人化は所得が大きく、役員報酬を高めに取って厚生年金もしっかり積みたい人向けだ。マイクロ法人(二刀流)はその手前、社保だけ安くしたい中所得フリーランスの折衷案にあたる。年収400万円以下なら、無理に法人を作らず個人のまま各種控除で戦うほうが身軽なことが多い。
よくあるつまずき
実際に作った人がはまりやすいポイントも挙げておく。
- 役員報酬を期の途中で動かそうとする。原則は期首から3か月以内に決めて据え置き。途中の増額は損金にならず課税が重くなる。
- 法人と個人の事業の実態が分かれていない。売上を法人に付け替えただけだと税務調査で否認される。
- 赤字の年に均等割7万円を忘れて資金繰りが詰まる。儲けがゼロでも固定費は出ていく。
- 役員報酬を下げすぎて生活費が法人からの貸付になり、貸付金がふくらむ。手元の生活設計とセットで報酬額を決めたい。
- 将来の年金額を考えずに最安に振り切る。老後の受給減という代償を理解した上で選ぶこと。
どれも事前に知っていれば避けられるものばかりだ。設立を急ぐより、この一覧に心当たりがないかを先に潰しておきたい。
やる前に試してほしいこと
まずは自分の直近の国保通知書を引っ張り出し、「国保+国民年金の年額」と「法人にした場合の社保 約26万円+維持コスト 約20万円」を並べてみる。この引き算がプラスになるか、自分の数字で確かめるのが最初の一歩だ。
扶養家族がいて国保が年40万円を超えているなら、検討する価値は十分にある。逆に独身で所得が読みきれない段階なら、急いで作る必要はない。法人はいつでも作れるが、いったん作れば均等割7万円が毎年ついて回る。焦らず、自分の損益分岐がどこにあるかを先に見極めたい。
本記事の保険料・税額は2026年5月時点の制度と各種試算に基づく目安であり、実際の金額は自治体・年齢・事業内容で変わる。設立前に正確な数値は税理士または日本年金機構・お住まいの自治体で確認してほしい。